頑張れる世の中へ
誰しもが「頑張った人が報われる」世の中を切望していることと思う。しかし、そんな世の中は幻想なのかなぁと時々思う。
よく似た表現に「成果主義」というのがある。これは「成果を出した人が報われる」という考えで、「頑張り」と「成果」は必ずしも直結しない。頑張り方を誤れば徒労に終わってしまうこともよくあることだ。去年の今頃売り子(営業職)をしていて、今もアルバイトながら営業をやっているわけだが、成果に圧せられるのは苦痛だ。報われるか否かの当落線上(例えば売り上げ上位には順位ごとに報奨金が出る、とか)では悲しいかな発奮してしまうのだけれど、そうでないときの気合の入らなさには我ながら呆れてしまう。 また、成果主義は給料泥棒を如実に表現する。ボクの売上高が給料を下回れば赤字すなわち給料泥棒だ。この烙印を押されると意欲は急激に減少する。出社しているだけで会社のお荷物になっていると言われたらいい気はしないだろう。
そもそも頑張りを数値化なんてできないし、仮にできたとしてもそれを評価する社会ではない。頑張りを見た目から判断して評価するのは義務教育までだよね。高校以降の頑張りが今の糧になっているかと考えると、大きな疑問だらけなんですけどね。学生の頃はいろんなことに打ち込めたし、悔しいことも乗り切って何らかの成果を挙げてきた。でも社会人になってからは打たれ弱くなった。仕事は長く続かないし、体調はすぐ崩れるし。学生の頃は誰か助けてくれたけれど、社会に出ると誰も助けてくれない。10年くらい前、同世代が続々といじめを苦に自殺していったけれど、おそらく彼らは早いうちに誰も助けてくれない世の中へ放り込まれてしまったのだろう。ボクは今さら、なぜあの時便乗できなかったのかと頭をよぎる。社会がかくも生きにくく、孤独なものだとは思いもしなかった。みんな自分のことでいっぱいいっぱいだからかな。会話するにも、邪険にされるのが怖い。
そのせいか、最近ボクはコミュニケーション不全に陥って困っている。伝えたいことが相手に伝わらない。相手の質問にもうまく答えられない(例えそれがYes or Noの2択であったとしても)。成果主義から来るプレッシャーなのかな。仕事柄まともな会話ができないのも原因だ。プレゼンする前にお客様は去っていく。これは学生の頃に受けたシカトを彷彿させるので生理的にキツい。この仕事、ボクは向いているのだろうか・・・。
まとまりのない文章で申し訳ありません。これがボクの心の内です。ブログについてはアクセスしていただけることを励みに更新していきたいと思います。時々よぎる悪魔を手で払いながら・・・。いじめとか、営業方法については後日改めて考察します。
・・・旧友たちよ、もう卒業から10年だよー。また会いたいよー!また叱咤激励し合おうやー!
« 汐留ノ盗撮魔・二次被害編 | トップページ | 鈴香容疑者と心の闇 »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント